長岡京市会議員選挙・武山さい子事務所開きで訴える!//「永原誠先生を偲ぶ会」、追悼の言葉を述べる。
目前に迫った長岡京市会議員選挙。22日、武山さい子予定候補の事務所開きに駆けつけました。
事務所前は地域の子育て世代とその子どもたちの多いこと。 武山さんは、市会議員になってから二人の子どもを産み育ててきた子育て世代。その議員活動を支えてきた地域のみなさんも駆けつけて、120名を超える参加の事務所開きをなりました。
私は、安倍政権と正面から対決する日本共産党の値打ちを語り、長岡京市政でのオール与党と対決し、市民の願い実現に果たしてきた党市議団の値打ちも語り、「5名全員の当選を」と訴えました。
私の立命館大学文学部の恩師で、京都原水爆被害者懇談会代表を永年勤めてこられた、故「永原誠先生を偲ぶ会」が22日京都市内で開催され、追悼の言葉を述べました。
学生運動に没頭して、先生の語学の授業もまともに出席せず、挙句の果てに、試験に遅刻しました。「活動に忙しいのだから、先生ならわかってくれはず」との甘えと活動しているとの増長の気持ちがありました。
先生は、「大学における学問、授業を何と考えるか」と一喝し見事に単位を落とされました。翌年、私はまじめに授業に出席し、単位を取得しました。
立命館大学で学園紛争が激しかった当時に、民主化を求める学生と敵対して全共闘は暴力で「大学解体」を呼号しました。その大学の危機のとき、著名な教授が立命館大学を辞職して大学に打撃を与える行動が相次ぎました。その中にあって文学部の学問を守り抜くため、諄々と筋を通して奮闘されたことなど、若かりし頃の先生との思い出を語りました。
先生は、口を手で覆い加減で小さく声を出し笑って話すチャーミングな優しい語り口の方でした。一方原水爆禁止を訴え、また悪政を告発する凛とした姿を忘れることは出来ません。柳のようにしなやかな紳士でした。
教え子である私の選挙の度毎に応援をいただきました。
まさしく遺書となった著作「ある一家の体験 消えた広島」で、先生と先生のご家族の被爆の体験を初めて詳しく知ることができ、つらい思い、怒りを超えての淡々とした叙述に先生の平和への思いの深さをかみしめ、核兵器廃絶、被爆者救援、原発即時ゼロ、平和の憲法を守る決意を述べました。
| コメント (0) | トラックバック (0) | Update: 2013/09/23