こくたが駆く

「岡部伊都子さんを偲ぶ」-藤原書店『環』誌に寄稿した原稿

 

515UTOZDHpL._SS400_

  随筆家で私も親しくおつきあいをさせていただいた、岡部伊都子さんが4月29日に肝臓がんのため85歳で死去した。
  岡部さんを偲んで、5月31日に行われた「偲ぶ会」は、会場となった同志社・新島会館に約600人が集った。

  私も日本共産党を代表して参列。
  その後、岡部さんの書籍の出版を多く手がけた藤原書店さんより、岡部さんの追悼特集に寄稿を依頼された。

  学芸総合季刊誌『環』2008年夏号に掲載された私の原稿をここに転載させていただきます。

 

藤原書店『環』誌「岡部伊都子さんを偲ぶ」原稿

「平和の遺志を継ぐ」

  一、五月三十一日「岡部伊都子さんを偲ぶ会」に出席した。岡部さんの婚約者であった木村邦夫さんの妹さんは「今日は、亡くなった兄の命日です」と語られた。「ああそうだったのか」と、実行委員会の思いやりに心を打たれた。

京都市北区出雲路に居を構えておられた折に何度かお訪ねした。

  岡部さんは、愛する人が、戦争への疑問を打ち明けたとき「私なら喜んで死ねる」と言って、戦場に追いやった自分を「加害の女」とよび、生涯責め続けた。

  木村さんの写真を見せながら、「好きやった人の、せっかく命をかけて言った本音にたいして、私の言葉は…。生まれてから死ぬ覚悟ばかり毎日させられて育ったから、答が出えへんかったんです」と静かに語った。

  反戦・平和の姿勢を貫き、命を踏みにじるものへ憤りの原点はここにあったのだ。

  岡部さんの親しき方々とも語らって、しんぶん「赤旗」にエッセイを寄稿してもらうことにした。橋渡しの役目を果たせたのは、二〇〇四年の夏の終わりだった。

  文化欄への「みみず鳴く」と題する連載がそれである。「私が自分を土のなかをもぞもぞと、もがきよろけて這っているみみずと思っている」と自らをみみずに託し「いのちある存在のよろこび、悲しみ」と記して、命と生きることの大切さを説いたのである。

  エッセイは、連載七回をもって突然終わった。「病気になっても書ける間は書きたいと思っていたのですが、ペンを持てなくなったら、もうおしまい。『冬の蝶』という題で予定していたが、私が冬の蝶になった」と紙上で“さようなら”したのだった。

  私は、「まだ続きが読みたいんです、『冬の蝶』の話もいつか期待してます」と電話した。岡部さんは「ごめんなさい、ありがとう。またビールを飲みに来てください」とだけ語った。今となれば悲しい思い出である。

  二、岡部さんのお家は、古い町家風の素敵なたたずまいであった。そのお家と暮らしの中にある身辺の品々を“思いこもる品々”として、『京都民報』に連載し、(足掛け四年合計百五十九回)多くの読者を魅了した。

  私は、命の大切さ、虐げられし人々への共感と同時に、日常生活の中にある品々へのいとおしみと、使いぬくことの嬉しさ、造り手への敬意、畏敬の思いを表している随筆として愛読した。

  一部は単行本として出版された。「どんな立場の人にも、どんな生活にも、なくてはならない日々の暮しがあります。互いに支え合い愛(いと)しみあっている家族や、縁ある暮しのなかでの発見・・・」(「あとがき」より)と、日常の暮らしの視点が貫かれていた。

  「踏み台」「からかさ」「湯桶」「芭蕉布座布団」「お箸」「箸置」「栓ぬき」などなど。造り手への心配りだけではない、表には出ぬ人々の手仕事の尊さ、“ものづくり”の京都文化への深い洞察にあふれていて、楽しかった。いま読み返しても新鮮な驚きを禁じえない。

  ビールをご馳走になったとき、シンプルな鉄器の栓ぬきが印象的だった。それが連載の「栓ぬき」に記された「南部鉄の単純明快な栓ぬき」だったのかもしれない。

  「花湯」も好きな随筆だ。木製の湯船に花を浮かせる趣向を紹介している。「季節ごとにお湯に浮かせていっしょにはいってもらいます」と、蠟梅を浮かせ、湯滴を払って花瓶にさす。思いもつかない岡部さんならではの感性だ。

  “落ち”は岡部さんが好んでいた照明具“仄(ほの)明(あ)かり”(和紙で囲った電球)である。自分も使ってみたいなと思い、似たような和紙の照明具を“仄明かり”と命名していまも愛用している。

  三、政治に関わる私にとって忘れがたいのは、二〇〇四年参議院選挙で西山とき子さんを応援していただいたことだ。

  病身をおして「岡部伊都子さん平和を語る」集いに出席し、「平和の一票を日本共産党の候補者・西山さんに」と、次のように訴えたのである。

  「戦争は、どんなにいい格好をしてもだめです。日本国の憲法も、武力は行使せんと、はっきり戦争放棄してる。その憲法が、今やめちゃくちゃでんがな。小泉首相は恐ろしい人やなぁ。アメリカのしている許し難いイラクへの爆撃に、すぐに加担して。あれはもう許せません。人間やったら、それを止めてほしい」

  「日本が積極的に『平和の道がありまっせ』『世界を平和にしまひょ』いうて平和への自分たちの努力をしたらいいんじゃないでしょうか。それも覚悟のいることでっせ」と、自らの一生と重ね合わせての訴えであった。岡部さん言うところの「日常の暮らしのこころ言葉」=関西弁で、ときおりユーモアを交えての語りだったが、平和への魂の叫びに感動した。

  平和を訴え続けた岡部さんの遺志をついで、憲法を守りぬきたいと思っている。それが私の務めと自覚している。

衆議院議員・日本共産党国会対策委員長

こ く た 恵 二

 

| コメント (0) | トラックバック (0) | Update: 2008/08/14

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kokuta-keiji.jp/mt/mt-tb.cgi/920

コメントを投稿

(コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になります。承認されるまではコメントは表示されません。すぐに表示されないからといって何回も投稿せずにしばらくお待ちくださいますようよろしくお願いします。)