谷口善太郎の思い出 「革命的開拓者精神に学ぶ」(ネットワーク京都6月号)
谷口善太郎の思い出 「革命的開拓者精神に学ぶ」
日本共産党衆議院議員団長・国会対策委員長 こくた 恵二
「京のまち 京の人 谷善の顔がある」の句は、蜷川虎三京都府知事が、詠んだものである。
清水焼の労働者出身、文学者であり、政治家であった日本共産党衆議院議員団長の谷口善太郎は、京都府民から「谷善」と呼ばれ親しまれた。今年、没後四〇年を迎える。
一九九〇年に西山とき子さんが参議院候補者、私が衆議院候補者となって以後、私は、正月元旦には、革命・革新運動の諸先輩のお墓を詣でることを慣わしとしている。
大谷廟で「守道不封己」と墓標に刻む谷口善太郎、労農党代議士で治安維持法に唯一反対し右翼の凶刃に倒れた「山宣」こと山本宣治、七期二八年間、革新民主府政をつくり、地方自治の灯台と称された蜷川虎三、「貧乏物語」を著し京都大学教授を務めたマルクス主義経済学者・河上肇、西陣労働者で一九二三年京都の党を谷善とともに創立した国領五一郎、そして京都解放戦士の墓を詣でている。
いずれも谷善との深い絆で結ばれ、交流のあった革命的先達に、新しい年を迎えて、闘う決意を新たにするためである。
一九七一年に、日本共産党京都北地区委員会の専従となった私は、間近に接することが出来た。
立会演説会での他を圧倒する存在感。人をひきつけてやまない「いぶし銀」のような魅力、その一方で軽妙な語り口と優しさ。そこには何より革命的情熱のほとばしりが感じられたのである。
谷善の真骨頂は、革命的挑戦・チャレンジの精神にある。谷善は、定数五人の衆院選挙旧京都一区から衆院議員として当選六回、トップ当選すること三回、一五年四ヵ月在職した。
忘れもしない六八年、日本共産党の河田賢治(京都府民はこれまた親しみをこめて「河賢」と呼ぶ)は、定数二の参院京都選挙区で初めて勝利した。続く六九年末の総選挙で、日本共産党は、衆院選挙京都一区二区ともトップ当選を果たした。この段階から、谷善は、国政革新の多数者革命を実現するためには、京都一区での複数立候補の必要性を説き、一九七一年、京都府委員会は京都一区での複数立候補を発表した。
五議席の定数の中で二議席を獲得しようというもの。京都の党が、民主連合政府の樹立をめざす闘いの先頭に立ち情勢を切り開いていくための新たな挑戦のスタートだった。
一九七二年総選挙にあたって京都府委員会による府民へのアピールは「京都一区で二名の共産党議員を勝利させることは、京都府にはもちろん、全国的にも特別な意義を持っています。第一に、共産党三名(注:一区谷口善太郎、梅田勝、二区:寺前巌)の国会議員の進出によって京都府民の声は、国政段階にも正しく反映され、『日本の夜明けを京都から』切り開いていく力をつくり出していけます」と訴えた。以来「日本の夜明けを京都から」が、革新運動を担う京都の人々の合言葉になった。
当時、北地区員会で、北区・上京区にある大学の学生党組織の担当をしていた私は、写真にある「たにぜん パンフ」を普及し、地域で訪問活動にいそしみ、選挙戦を闘った。
このパンフで、谷善は巻頭で「――わたしの血は、怒りに燃える。皆さんと、青年のように、燃えつづける」と決意を披歴している。
そして「いまおいくつですか」の問いに「二十七ですワ(爆笑)十月十五日で七十三になります。」が座談会のスタートである。
若い私たちには、ある種近寄りがたい羨望の的の偉い人物ではあったが、気さくでお茶目な面がパンフにもにじみ出ていた。政治革新の展望と未来、京都の役割を熱く語った。その精神の若々しさが、柔らかい感性の若者たちの心をもとらえたのである。何よりも政治革新への情熱に共鳴し、気概の高さに惚れ込んだのである。
谷善の素晴らしさは、府民の暮らしと京都を守るために闘いぬき、運動をリードし、政治を目に見える形で大きく動かしたことにある。
七二年当時、田中角栄首相の「日本列島改造論」の重要な柱である「工業再配置促進法」が、進められた。この法案は、工業の集積度が高い地域から低い地域への工場移転の促進をねらうものだった。谷善は、工業再配置法による地域指定に反対し、この法案が、京都の地場産業、西陣織・清水焼・京扇子などの伝統産業追い出し法であること、これが強行されれば伝統的な京都のまちそのものが破壊されることを明らかにし、国会での追及と同時に全府民的な運動へと発展させるイニシアチブを発揮した。
西陣の地域では、西陣織工業組合、全西陣労働組合らが、組織をあげての反対運動を取り組み、共同の闘いで、ついに工場追い出し地域から京都市の指定をはずさせる成果を勝ち取った。「清水焼と西陣織から生まれた日本共産党」が伝統産業とモノづくり、京のまちを守ったのである。
谷善は後年「風満堂」の言葉を色紙によく書いた。私も所持している。それは、「山雨来らんと欲して風楼に満つ」の漢詩をアレンジしたのだろうと勝手に想像している。
情勢の激動が起きている、悪政と国民の間での矛盾が高まっている。闘いの機は訪れている。いまこそ決起を、と訴えたのではないか。
七二年の躍進、なかんずく京都一区複数当選は、衝撃を与え、「自共対決 共産党に軍配」とメディアは書いた。六八年の「河賢」の勝利に始まり、七〇年代の躍進へとつながった。
時あたかも、参院京都選挙区で一五年ぶりに倉林明子で勝利した。いま安倍政権の暮らしと平和の破壊、原発再稼動の暴走と真正面から対決する日本共産党。自共対決の新時代の到来である。
消費税増税反対、平和憲法を守れ、原発再稼働反対という国民世論の多数を背景にして闘っている。大義の旗は我にあり。
七〇年代、九〇年代後半の躍進に続いて、第三の躍進を何としても勝ちとり、政治を変えたいと願う国民の期待に応えたい。
私は、九三年初当選後、衆議院議員としてはや二一年、日本共産党国会対策委員長、衆議院議員団長として“谷善”の後を継ぎ活動している。真に谷善の後継者といえる役割を果たさねばならない。谷善に学び、民主連合政府の樹立に向け、新たなチャレンジ精神を発揮しようと決意している。「日本の夜明けは京都から」の旗を高く掲げて。
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