こくた恵二の着流しエッセイ(第3回)晴れ着から普段着へ
「吉祥院民報・ねぎぼうず」に掲載 元旦、お東さん(東本願寺)と、祇園石段下(八坂神社)で宣伝が恒例となっている。年毎に、着物姿が減っているような気がする。振袖姿などは殆ど見ない。京都でこれではとても残念な気持ちだ。 ここで、「着物とは何か?」を考えてみたい。まず日本にしかないモノである。太っていようが痩せていようが、どんな体型の人にも、一反の反物から縫い上げて着物ができる。 今、大量生産・大量消費・大量廃棄のあり方を見直そうという機運が盛り上がっている。前回も記したが、着物は、何代にも渡って着ることができるし、最後は座布団や布団に転用し、まったくムダがない。まさに“優れもの”であり、21世紀にふさわしい衣服なのである。 私は、愛する“着物”の優れた特質を広め、着物需要を大きく喚起したいと考えている。 そこで「晴れ着」としての復興も大事ではある。結婚式、成人式、七五三など各種の式に着用することをもっと勧めたいと思う。 ただそれだけでは底辺が拡大できない。箪笥の奥にある着物を、“箪笥の肥やし”にせずに、いろんな機会に着用してもらわねばならない。 私が「晴れ着から普段着へ」と呼びかけているのはその趣旨だ。どう日常に着てもらうのかがポイントになる。 「ゆったりした暮らし」が不可欠だ。異常な長時間労働や不正規雇用の横行など「ルールなき資本主義」が、着物文化を奪っている一側面であることも疑いないところだ。 皆が日常に着用できるような努力も求められる。例えば、“京を通過する”(京都に生まれた人も、学んだ人も)すべてが、着物簡単に着用できるような仕掛けをつくろうではないか。企業組合の方々が、ボランティアで大学に出かけ着付けの教育を行なう例も多数見受けられる。工夫次第ではないか。 そんな長い展望を持って進みたい。いざ日常普段着へ。
(Update : 2006/02/21)
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