みんなの船岡山公園を守りたい。
先週の日曜日に、船岡山南斜面を削って景観を壊すマンション建設計画があることを紹介したが、現場を調査したさいに目に留まった大徳寺の反対声明文が、なかなかすばらしい名文であった。 ぜひこの声明文を広く読んでもらいたいと思い、大徳寺に連絡をとったところ、『どうぞ(ホームページに)載せてください』とのお返事をいただけたので、以下に紹介させていただく。
みんなの船岡山公園を守りたい。
国の史跡に指定されております船岡山は標高、百十一メートルの山というよりは丘といっていい程の小さな山ですが、京都紫野にあって、いにしえより、景勝の地であり、また、遊行の地でありました。円融上皇は寛和元年(九八五)二月十三日紫野で、子の日の遊びを催され、歌人たちも加わりました。
舟岡に 若菜摘みつつ 君がため 子の日の松の 千代を送らむ (元輔集)
哀れなり むかしの人を 思ふには 昨日の野辺に みゆきせましや (新古今集)
このことは「今昔物語集」巻二八に載っておりますが、「栄花物語」「枕草子」「古今著聞集」「平家物語」「撰集抄」「徒然草」「保元物語」「応仁記」「拾遣集」「山家集」など、船岡山(舟岡)は、日本の古典にしばしば登場いたします。 また、このあたり一帯を「西陣」と通称し「西陣織」の名で世界に知れわたっておりますが、応仁の乱のおり、一色氏、山名氏ら西軍が舟岡に城砦をかまえ、陣としたことから、西陣の名で呼ばれることになりました。
現在では市街化の進んだ京都市街にあって東側は建勲神社さんが居られ信仰の山として、また保育園児からお年寄りまでが、自由かつ手軽に、緑と自然に触れあえる貴重な憩いの空間になっております。京都の幹線道路の一つである北大路通りから数十メートル南に下るだけで、道に迷う心配もなく、緑の濃い、四季の息づく、閑静な自然公園がポッカリと姿を現すのです。市民の中には、初めてどんぐりをひろったのが、生まれてはじめて登った山が、船岡山であった。と、いう人も多いのではないでしょうか。山頂には三角点があって景色がよく、今日の伝統行事お盆の大文字送り火の折には、鳥居を除く大文字、左大文字、妙法、船形、の四つすべてが見渡せる場所でもあります。高いビルの上からではなくて、地面に立って、誰もが自由に送り火を、四つも拝める場所が、はたして今の京都にどれだけ残されているのでしょうか。歓声とどよめき、荘厳と厳粛につつまれた、超満員の人だかりの山になることでもわかります。晴れた空気の澄んだ日には緑の向こうに京都市街が一望でき、比叡山、東山、北山、双ヶ岡、吉田山、西山、桃山、天王山、男山、甘南備山、遠くは生駒山までが遠望できる場所であります。北大路通りから十五分、三十数メートル登るだけで市街から抜け出て、この眺望と山頂に着いた、という達成感を手に入れることかできるのです。
平安京の造営時には、四神相応の考えに基づき、北の玄武(船岡山、都の守り)、南の朱雀(巨椋池、気を養う)、東の青龍(鴨川、都の繁栄)、西の白虎(山陰、山陽道、文化の交流)のひとつとされました。都の守り、玄武なる船岡山を基点として、その南に天皇の居所たる大内裏を置き、そこから真南に、南側に柳の並木をたずさえた幅二十八丈(八十四メートル)の朱雀大路を通し、右京、左京を分けたのです。平安時代、朱雀大路を立って北を見ると、背後に船岡山をいただいた大内裏が望めたはずです。
京都の町の基点として、西陣発祥の地として、市民の公園として、小さな丘でありつつも大きな存在として、大切にされてきた船岡山でありますが、山頂の真南の標高八十メートルの公園に接する前面道路幅5.9メートルの傾斜地で、高さ二十六メートル幅二十二メートル、奥行き40メートルの巨大マンションの計画が、現在、名古屋の業者の手で進んでいます。このまま完成すれば、建築物最後部の標高で百六メートルとなり山頂の百十一メートルに迫ります。国史跡にも指定されている船岡山公園の山頂をこのような建築物で覆ってしまって、果たしていいものでしょうか。船岡山南麗の公園の外側は伝統的建造物が取り巻いており、高層建築物はありませんが、この高層建築物が建設されれば、付近にお住まいの方の日照、プライバシーはもとより、地滑り、土砂崩れなどの自然災害の危惧、風景に対しての威圧感、頂上よりの眺望、さらには樹木の植生に与える影響など測り知れないものがあります。
中国北京の紫禁城の背後には景山という丘が玄武となって都を守っています。景山を掘り削って高層建築物を建てる人はいませんが、同じような役割をもった、船岡山はどうでしょうか。千二百年の歴史を持つ都市、京都が魅力ある町としてこれから先も世界中の人々の興味を惹きつけ、人が集まり、活気ある町であり続けるためにはどうしてゆけばいいのでしょうか?次の世代の子々孫々に何を残し、そして、伝えてゆくべきなのでしょうか?悪いものを残すことはありませんが、良いものだったら残せばいいのです。平安京造営に際して、桓武天皇らはこの船岡山に登って平安京の計画をされ、かつ、完成の姿を眺められました。千二百年のあいだ、京の都を見守り続けてきたこの丘を、都市の中にあって貴重な照葉樹林を、そして、古人から受け継いできたこの視座と歴史をわたしたちは失ってしまってもいいのでしょうか。
枕草子に「岡は船岡」と岡の第一番にあげられた船岡山。水に浮かんだ船のような、山の形から荘名づけられたといいます、京の基点にして、景勝の地であり、祭祀の磐座であり、歴史の舞台でもあるゆえに数々の文学の舞台となった船岡山が現在一つの危機に直面しています。ぜひ、あなたも山頂に立って、かつて平安人が眺められたのと同じ場所から、百年後二百年後の京都の行く末を考えてみてください。自分たちがよければいい、という考え方はもう時代遅れなのではないでしょうか。
波高き 世をこぎこぎて 人は皆 舟岡山を 泊にぞする 西行(山家集)
(Update : 2005/03/14)
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