わが父の死について
私の父が先ごろ亡くなった。本人の遺志により家族による密葬を行なった。
10年の長きにわたり肺気腫で、酸素ボンベを24時間着用していた。前日まで元気に身体を動かし、母と話していて、あっというまの急死だった。
私への連絡も、「家で倒れて救急車で運んだ」とあり、またこけたのかと気楽に考えていたら、次の連絡では「亡くなった」であった。
母によるとまったく苦しまずに、襖にもたれくず折れるように息をひきとったとのこと。
〈父と母あっての私〉
私が今日あるのは、父と母のおかげである。父は岩手銀行の労働組合の役員として活動し、地域の労働組合づくりに「賃労働と資本」などをテキストに学習会を熱心に開催していた。ときおり参加し、赤旗日曜版を読んで少々天狗になり物知り顔に発言する私をどやしつけたものだ。「実際に働く人々の苦労を少しは知ってからモノを言え」と。
父が組合の分裂と闘うストライキ闘争のため、毎日泊り込んでいた似内旅館(だったと思う)弁当を運んで、組合員のお父さん方にかわいがられ、三井三池炭鉱労働者との交流などにも末席をけがさしてもらった。
父と母は、1964年、京都の立命館大学で開催された原水爆禁止世界大会に一緒に参加した。末川博総長の話を初めて聞いたと帰って私に興奮気味に語っていたことを思い出す。
このことが、私が立命館大学に入学するきっかけとなった。親友が京都の末川先生の大学に行こうと誘ってくれて、父母もそれなら良いじゃないかとなった。
父が日本共産党の一員として生涯を閉じたことを私は誇りにしている。父と母の生き方が私に影響を与えたのである。
大学の一年の冬に日本共産党の一員になったことを父に報告した。喜ぶと思ったら「うーん」といっただけだった。それ以来学生運動に熱中して故郷に帰らなかった。4回生の終り頃に連れ合いになる“お誠さん”を紹介がてら戻った。
その時母は、こっそり「お父ちゃんは、顔をクシャクシャにして喜んでたよ」と告げた。
二人して、4軒のしんぶん「赤旗」読者の配達・集金をコツコツ続けたことがいまも私を励ましている。
(Update : 2005/10/22)
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