京菓子司「柏屋光貞」
当主・中川夕津也さん
■「今年もとりにいくさかい……」
そう、「世直しの日」にしようと、市民みんなで戦っていた、京都府知事選挙のとき、京都四条の大丸前で、私も、森川候補の応援をさせていただくため、“町の社長さん”の一人として、選挙カーの段上に登りました。
そのとき、こくたさんと目があいました。
「よう! 今年もとりにいくさかい、用意しといてやぁ!」
これで、会話は通じたのです。私の商売は、京菓子司です。
司(つかさ)とは、ひとに仕えて、仕事をすることです。司法は法律を司どって仕事をする役所のことです。だから、私の家業は、お菓子をご注文下さる、あらゆる人のために一生懸命に働き、喜んでいただくことをこの上なく、有難いと願う商売なのです。
昔は、京人形司とか櫛(くし)司とか彫刻司などと墨書きした、のれんがさがっていたものです。
さて、こくたさんのいわれる、今年も取りにいくさかい(行くから)とは、なんのことでしょう?
ことしも。とは、毎年連続して、という意味です。
じつは、1年に1度、1日に限りつくる「行者餅」という菓子の意味だったのです。
こくたさんが、いつのころから、この菓子のファンになっていただけたのか? は、分かりませんが、数年前にこんなことがありました。
行者餅は、予約注文のみ、製造し、お買いあげ戴いているものですから、覚えているのです。
お若い女性の声で「こくた」です。行者餅の注文をしたいのですが。と、おっしゃり、数量をお聞きする間もなく電話は切れてしまいました。
行者餅の発売日は、毎年7月16日、と決まっていますから、当日、芸術家風のモダンな女性が、お越しになり「こくた」です。と名乗られましたが、数を聞かなかったために記入もれとなって、予約の中に入っていなかったのです。
注文の品には、お名前のエフをつけますので、それを探しながら、冗談半分に「国会議員のこくた恵二さん」なら知っているのですが……と。
「わたくしが、こくたのつれあいでございます」
こくたさんが、「行者餅」を食べていただいていることが、分かったはじめです。
■「行者餅」とは?
「行者餅」とは?
いまから、200年ほど前。京都の町に疫病が流行ったといいます。私はまだ屋号を名乗っていませんでしたネ。柏屋光貞と申します。柏屋の6代前、文化3年ごろといいますから1806年です。四世利兵衛という先考が、聖護院門跡の山伏として、奈良大峰山で修行をしていましたとき、夜の夢の中に「役(えん)行者」があらわれて、行者の衣に象(かたど)った菓子をつくって、祇園祭りの山鉾の役行者山に供えて、知人縁者に配れば、そのものは、疫病からまぬがれようと、お告げがあったそうです。
1806年より以後、柏屋光貞では、連綿とそのお告げを守り、戦後、幾年かは途絶えましたが、いまも、つくっております。
今年は、6月23日に、工場清掃の祓と製造所安全祈願のお祭りを、聖護院宗務総長の宮城泰年師をお導師にお向かえして、修行させていただきました。
行者餅が、完全に済みましたら、大峰山にお礼参りに登拝する予定でございます。
行者餅をつくっています関係もあり、柏屋光貞では、大峰山修業を欠かせません。先代は、峰中出世大先達という山伏では最高位までもらった人でした。
■役行者山
先程申しましたが、祇園祭りの32あります山鉾のなかで、「役行者山」というのは一番北の端で、室町通り姉小路南入るに立ちます。祇園祭りとはいえ、華やかな薙刀鉾や船鉾、月鉾などとは大違い、維持し巡行する費用などの捻出には、この不況とマンション化への変貌で、町内幹事は大変なようです。役行者山町での商売軒数は12軒・昔から夫婦で住んでいるのは3軒です。月1万円の町費を集めても、焼け石に水だそうです。
観光京都をかかげ、祇園祭りを大イベントとして宣伝している京都市からの助成も無いに等しい金額だそうです。
高速道路や迎賓館といった大型公共事業を削ってでも、伝統行事や伝統産業を育てる、良い政治をしてほしいものです。
「こくた恵二」さんを応援しています。
[2002年6月]
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