■金箔とは?
金を表面に貼り付けて装飾として使う手法はそうとう昔からあります。
日本では甲山古墳から金糸が出土していますので、奈良時代にはすでに使われていたようです。
外国で言えばそれこそエジプト文明の時代には利用されています。
私は今の職業につくにあたって「箔とは何ぞや」ということを考えました、今も考えてます。実は、
金箔がどのぐらいの薄さから『箔』と呼べるのかという明確に何ミクロンという基準があるわけではないのです。
金という金属は限界を超えて薄くすると『金それ自体で形を維持できない』状態となるのですが、私はそういう状態を「箔」
と言っていいのではないかと考えています。
*打ちはなしの金箔
■金箔のつくり方
では金箔をどうやってつくるかですが、現代では圧延機、
昔なら金床で金の薄板を台紙に挟んで叩き、 薄く延ばしてやると、金の状態が延金(のべきん)、荒金
(あらがね)、小重 (こじゅう)、大重(おおじゅう) と呼び名を変えて「成長」します。
大重を切り分けて叩いたものが、いわゆる「金箔」 になります。
昔は手鎚(てづち)で職人さんが丹念に打ってたんですけど、今は機械打ちです。
1分に700回ぐらいの速さで打つそうです。
箔作りで大事なのは、台紙となる紙(=箔打ち紙)なのですが、今は安価なハトロン紙(いわゆるブーブー紙)が主流で、
これは昭和になってから出てきたものです。もともとは江戸時代から雁皮(がんぴ)紙という、
雁皮からつくった和紙を使ってました、兵庫県の名塩などが「名塩紙」と呼ばれて有名です。
この紙には紙漉のときに使われる麻の紗のあとがあり、これを使った金箔は表面に格子状の厚みの変化がありまして、
私はこっちのほうが味があって好きですね。
*
江戸時代の手打ち作業を再現
■「箔屋」 の仕事
私の仕事は金箔を「作る」ことではなくて、金箔を 「使う」側です。
紙の上に箔を貼り付けるのを「箔を押す」 と言いますが、
貼り付ける紙の性質によって金箔はいろいろな表情を見せます。
例えば貼り付ける紙の表面に前もって下地の「うるし」を塗れば表面がつるつるの光沢になりますし、和紙に膠(にかわ)
液で貼ると紙の素地のままの光沢になります。(写真左)
限界近くまで薄くした「箔」は重ね合わせて軽く圧迫するだけで接合するのですが、
膠液で貼ると重なり合ったところは厚みの違いから輝線として浮かび上がります。
金の純度や厚さによって、金の性質も変わってきます。
金箔以外にも銀箔もあります、 銀箔は硫化させてやると渋い感じの色合いになります。
布地に織り込むときには、箔を押した台紙ごと細く刻んだものを横糸にして織り込みます(写真右)。
織り込んだあとにタテヨコの比率も変わります。
そういうものをいろいろ組み合わせて装飾となる模様をつくっていくのです。
■帯や屏風に使われる金銀箔
西陣の箔職人として、
西陣織の帯に織り込まれる金銀箔貼りにずっとたずさわってきました。もしかすると皆さんも、
帯に織り込まれた私の「箔」をどこかで見ているかもしれません。
着物の帯に織り込まれた金箔は、帯に輝きと陰影をもたらすものですが、織り込む為に箔を糸のように裁断しますので、
金箔が元の状態で人の目に触れることはほとんどありません。
最近は、絵画作品として発表する機会も増えまして、NYで個展を開いたこともありますが、
多くの方が金箔そのものを目にするとしたら、やはり金屏風などでしょう。
金屏風として有名な作品といえば、江戸時代の作で国宝として教科書にも載る「風神雷神図屏風(俵屋宗達)」や
「燕子花(かきつばた)図(尾形光琳)」等でしょうか?
同じく尾形光琳の「紅白梅図屏風」も有名です。
■尾形光琳「金箔偽装論争」―
東京文化財研究所の科学調査
私はいま東京文化財研究所を相手に論争を挑んでいます。
2004年の2月に、尾形光琳の代表作「紅白梅図屏風」を所蔵するMOA美術館のシンポジウムで、東京文化財研究所
(東文研)が紅白梅図屏風の科学調査結果について発表を行いました。紅白梅図屏風はそれまで、金地部分には金箔が、
流水部分には銀箔が使われていると考えられていました、箔を張ったときにあらわれる「箔足」
と呼ばれます升目模様があるからです。しかし東文研は「金箔」「銀箔」は使われておらず、
箔を張ったように見せかけるために箔足を手で書いたと発表したのです。
この調査からシンポジウムにいたるまでが、NHKスペシャル「光琳 解き明かされた国宝の謎」
として放送されたことで、この説は一気に広まりました。番組の中で、金地部分は金箔を細かく砕いた「金泥」
を塗ったもので、箔足は後から書き入れたものだと結論付けていました。
東文研の「論」は、「紅白梅図屏風」の流水部分から「銀」が一切検出されなかったことにもとづいて、「あの『箔足』
はあとから書き加えられたものである」ということが出発点でした。精巧に「箔足」を描く技術を持ってすれば金箔も
「金泥」で置き換えられ、金の含有量の少なさなどもそれで説明できるというのです。
*
MOA美術館所蔵紅白梅図屏風
■美術史界に論争を挑む。
これには驚きました。
今まで慣れ親しんできた尾形光琳の代表作が箔を使っていない「だまし絵」
だったなどという事は私に言わせれば絶対にありえない「でたらめ」だからです、
金の含有量が少なかったり不均質なのは、
江戸時代の純度の低い金箔と現代の純度の高い金箔の違いで説明できますし、 第一「金泥」を使えば「金箔」
よりも同一面積の金の検出量が多くないといけないのです。この研究者は当時の「金箔」
のことが全然わかってないなと思いました。箔職人としてこんな「でたらめ」は許せない、
証明ができるのは箔職人である自分だけだ。と、思いまして、知人を通じて東文研の早川泰弘・
研究室長に疑問を投げかけてみたわけです。
早川氏から、反論の手紙も頂きました。手紙の中に、中央公論出版から発売されている『国宝 紅白梅図屏風』
に研究の詳しい内容が、高精細デジタル画像や透過X線写真などとともに収録されるから、
それを読んでから反論をしなさいということも書いてありましたので、26,250 (税込)
と大変高価な本だったわけですけど、しょうがないので買いました(笑)。
*右が金箔、
左が金泥、「台紙は鳥の子三号に膠で貼ったもの」
■「箔」を使って「箔」を残さず。
早川氏はこの流水部分の謎(=銀が検出されない) を解けば、
会って話を聞いてくれると私の友人に言っておられたとのことで、私はこの謎に挑むことにしました。
結論から言いますと 「箔足」を手で描くことは不可能であり、光琳は一度「銀箔」
を一枚一枚が重ならないように隙間を空けて貼り付け、 全面に墨を塗ってから銀箔をはがすことで、
隙間の部分に墨が残るので「箔足」のような線を描くことができたのです。
これは写真の技術の応用です。私は大学では写真を専攻していたので、この方法を思いつきました。
そして、この説を証明するために、実際に光琳の作品を自分で再現もして、3年がかりで論文にして発表したのですが、
論文なんて書いた経験もなく、楽しい苦労をしました。
*
箔を使わなくては写真のようには描けない
■江戸時代の絵画の修復や模写に役立てたい
反論は出来上がったのですが、
なにせ東文研といえば世間では 「権威」 です。 その東文研の「新説」
がNHKに大々的に取り上げられたこともあって、いまだに「定説」 ように扱われています。
NHKの関係者やMOA美術館の方、番組に出演していた美術史研究科など、
名前は明かせませんが多くの人に論文を送ったり話を聞いてもらったりしました。概ね賛同いただいた方も多いのですが、
東文研とはいまだに決着をつけられずにいます。
私は自分の反論に確信を持っていますから、再び「金箔偽装論争」
が盛り上がって多くの人に知ってもらえればと願っています。何より、当時の箔の構造がわかることで、
絵画の修復や模写に役立つと考えています。
*作品の修復作業
■こくたさんに期待します
この夏、
児童劇団を主催されている近所の方に雑誌や論文をお見せしたところ、 私の書いたものをもって、
こくたさんがお見えになりました。見ると論文に傍線なんかが入っており、 驚きました。
こくたさんの質問は具体的でしたので、実際に箔を使ってご説明したところ、大変に興味を持っていただけまして、
この論争を盛り上げるために、知り合いのマスコミ関係者などを紹介してもらったりしまして、ほんとに感謝しています。
こくたさんは共産党の方で耐用年数の過ぎた「権力」と闘ってる方です。そんなこくたさんなら私が東文研という「権威」
と闘っていることにも共感していただけるだろうと思ってましたが、実際お会いして話してみると、
実は同い年だとわかったり、お互い大学時代に学園紛争を経験しているということもあって非常に親しくなりました。
さらに共感していただくだけでなく、実際に動いていただけたのも驚きました。
今ではすっかりこくたさんのファンです、今後のこくたさんの活躍に期待しています。
[2007年10月]
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