こくたせいこ
染と織
織物は魅力的である。
殊に夏着物は、着る側にとってはわくわくするほど多彩で美しい。「芭蕉布」「越後上布」「宮古上布」などの重要文化財にはじまって、「小千谷縮」「明石縮」「能登上布」「八重山上布」「藤布」「夏塩沢」「夏大島」「絽」「紗」「羅」など数え上げればきりが無い。
しかし、夏に着物を着る人はめっぽう少なくなった。結婚式の留袖にしても、空調の効いているホテルが多い昨今では、袷で済ます人も多い。まして先染めの着物のくせにその価格は半端ではないものが多い。需要が激減したこと、したがって生産者も苦労の割には生計が立たず、値段は物によっては数百万になる。これはもう着るという日常的行為からは著しくかけ離れた価格である。苧麻や藤布、芭蕉布などの植物の繊維を糸として織る織物は、その原料となる植物の栽培から手をかけねばならず、着物になるまでには気の遠くなる工程を経なければならない。
もしも人生のある時期、「染」ではなく「織」に出会っていたとして、わたしは「織」の世界に足を踏み入れていただろうかと考えることがある。答えは「否」である。
アバウト、適当、これがわたしの個性。おおらか、楽天的、良く言えばこれがわたしだ。そしてこれらの性質は極めて「織」という行為には不向きに思われる。緻密で計画的で、長期にわたる作業をやり終える沈着さこそが、優れた織物を生み出す条件のようだ。それなくして美しい織物は生まれないのではないか、というのがわたしの結論である。
白い布に想いの形や色を表すのは、むろん細やかな手作業がかいもく無いわけではないが、それでもなお、自由で奔放でわたし向きだ。自分に出来ないもの、無いものを求め、それに憧れるのは人の性であろう。
織物は限りなくわたしを魅了する。そして無責任にもわたしをそれを身に着けるだけの人でありたい。しかし、優れた使い手になろうと思う。手厳しい使い手こそが創り手を育ててきたのだ。
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