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【第165臨時国会】 衆議院・教基法特別委員会
教基法「改悪」特別委員会の中央公聴会
○森山委員長 次に、穀田恵二君。 ○穀田委員 日本共産党の穀田恵二です。 公述人の皆さん、貴重な御意見を本当にありがとうございました。 公聴会は、国民の声を真摯にお聞きし、国会審議に反映すべきものです。ところが、与党は、公聴会開催前日である昨日、きょうの採決を主張しました。この態度は公聴会を冒涜するものだと一言述べておきたいと思います。 最初に、出口公述人にお聞きします。 今、早急に解決を図らなきゃならない教育問題は山積みです。その中で、いじめ問題などの対応を見ても、教育が、教育委員会や文部科学省の方ばかり、つまり上ばかり見て、子供を見ないという弊害が如実にあらわれていると感じざるを得ません。現行教育基本法十条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」との条文の意味をかみしめて、生かすべきときだと私は考えます。 ところが、政府案は、国家が歯どめのない形で教育内容に介入できる仕組みをつくっている。事実、答弁でも、この法律の定めるところにより行われる教育委員会等の命令や指導などが不当な支配でないことが明確になった、このように述べています。ここが私は政府案の非常に大きな問題点の一つだと考えていますが、御意見をお聞かせください。 ○出口公述人 不当な支配の問題につきましては、冒頭、私の方で日弁連の意見書に基づいて意見を申し上げたとおりでございます。 実際に、いじめの問題につきまして、私ども実務的にかかわりを持っていきますと、今御指摘の教育委員会とそれから現場の教師との関係、これがどういうふうな状況になっているのかということが如実に見えてまいります。実際に、やはり現場は非常に苦しんでいるわけですね。 実際、いじめをどうやってなくすのかということについては、教師集団がやはり学校の中で一致した方針を持っていないといけないんですけれども、なかなかそういうふうな体制を組む時間的な余裕もなければ、あるいは相互の教師間の信頼関係もなかなか十分でない、そういう中でいじめとかあるいは暴力行為が発生しているというのが現場の状況だろうと思うんですね。 本来は、そういう問題に対して教育行政として、やはり十分な、人的な配置を含めて、あるいは体制ももう少し考えた方がいいんじゃないかというふうに思っております。私も実際、京都の中で教育委員会の方には、例えば弁護士とか精神科医とか臨床心理士などを含めたサーキットチームをつくって個別的な問題に臨機応変に対応していく、そういうことだって考えていいのではないかというふうなことを申し上げたことがありますけれども、やはり、そういう点では現場に対する理解が必ずしも十分でない、そういううらみがあったという経験を一言申し上げておきたいと思います。 ○穀田委員 ありがとうございます。 次に、西原公述人にお聞きします。 政府の改定案は、基本法に新たに第二条をつくり、我が国と郷土を愛する、中略ですが、態度を養うなど二十に及ぶ徳目を列挙し、その目標達成を義務づけています。これは内心の自由を侵害する大きな問題をはらんでいると私は考えます。 最近、東京地裁は、先ほども議論になりましたけれども、東京都の日の丸・君が代押しつけに対し、憲法第十九条と教育基本法第十条に反するとの判決を出しましたが、この点についての御意見をお聞かせください。 ○西原公述人 海外の例を見ますと、教育目標を法律で決めること自身は決して珍しいことではないというのがまず一つです。ですから、その場合に、本質的なのは、教育目標の設定とその教育目標の実現の仕方がどこまで法律によって縛られるのか。逆に言うと、教育目標の実現に向けたコミュニケーションがどこまで開かれたコミュニケーションとして実現していくのかというところが決定的に重要なんだろうと思います。 ですから、政府案にかかわる問題点で私が最も大きいと思うものは、やはりそこのコミュニケーションが非常に上からの硬直的な流れになってしまいやすい。つまり、やはり中央官庁レベルで決められたものがそのままの指令という形で現場に直接おりていく。そのことによって、もちろん、現場の先生方の創意工夫の余地というのは極小化していってしまうだろうし、一人一人違った子供たちの個性に対応していくような現場のあり方というのは、基本的には否定されていくことになってしまいはしないかというところに非常に大きな問題があるわけです。 御指摘のとおり、もちろん、こういう考え方を、あなたの正しい考え方として唯一これしかないんだから受け入れなさい、そういう形で学校の活動が行われるとするならば、私の定義ではこれは教育とは呼べない、子供の調教と呼ぶべき事柄であって、もとより基本的人権の主体、あるいは主体になり得る存在としての子供というものの人格を尊重したものとは考えられない。あらゆる意味において基本的人権の侵害に当たるということは、まず出発点として確認すべき点だと思います。 そういう意味におきましては、やはり政府案、まだまだきちんと審議し、問題点をきちんと浮かび上がらせていくことが必要なのではないかというふうに考えております。 ○穀田委員 もう一点、西原さんにお聞きしたいと思います。 日本の教育は、国連子どもの権利委員会から、過度の競争教育だと批判を受けています。政府改定案に盛り込まれた教育振興基本計画などを通して競争教育が一層促進される懸念を私は抱いていますけれども、この点での御意見を伺いたいと思います。 ○西原公述人 競争の問題は非常に難しいと思うんですけれども、仮に教育に計画という考え方を持ち込んだからといって、即競争が激化するかというと、それはもちろん計画のつくり方ということになりますので、その必然性は必ずしもない。ただ、特定の条件の中ではそういう方向性を持ってしまうということです。 その特定の条件としてやはり、現在の教育をめぐる環境の一つの条件としては、まずお金を余りかけたくないというところが出発点になって議論が組み立てられている。私は、やはり子供に投資することが最大の有効な投資というふうに考えていますので、まずその前提を、なぜそうなるのかなということに強く疑いを持っているわけです。 二点目として、その場合に、効率性を追求するに当たって、その効率性は、すべての子供たちに均等に教育の機会を与えるという方向性の法律修正に必ずしもなっていないような危惧があるというところがわからないところの第二点目です。 もとより、全員に同じ教育を与えることがいいことなのかというと、多分そうではない。やはり、子供にそれぞれ個性があるように、個性に応じた能力の伸長、これは中教審の言葉ですけれども、それを目指すべき場合というのはもちろんございます。ただそれは、後に社会に巣立っていくに当たって、やはり同じ条件で社会の競争に参加するということが確保された上での話ですので、その前提を欠いてしまうと非常に問題だろうというふうに思います。 競争を激化するという意味では、現在の政策の先にあるのは必ずしも競争の激化とは言えないかもしれない。ごく一部のエリート集団において、自分たちが生き残るために競争を強いられる、それ以外のグループについては早目にドロップアウトをさせられてしまうという現象が、もしかすると今の政策の先にあるかもしれない。そういう意味でいうと、そこでの問題というのは、競争の激化よりも、まさに子供たちの発達機会に対する支援が途中できちんと行われない状況ができ上がってしまう、そのことが最大の問題なのではないかと思っております。 ○穀田委員 次に、広田公述人にお聞きします。 安倍総理の教育再生プランや、近ごろ、今お話しになりましたけれども、競争と効率の名で、学校選択制や、学力テストの実施と公表によるランクづけ、そのランクに基づく教育予算の配分、いわゆる教育バウチャー制などが議論になっています。その一部は東京の足立区、品川区などで実施に移されているわけですが、そういう方向についてどういうふうにごらんになりますか。 ○広田公述人 日本はかなり、高度成長を経て非常に効率的な教育のシステムをつくってきたと思っているんですね。ところが、いわば今までのシステムのいい部分というのを忘れて、とりあえずアメリカやイギリスのモデルから学ぼうという形で、かなり、プラスとマイナスがきちんと計算されないままに改革が進んでいる部分があるような気がします。 今、教育再生会議なんかで動いているのは、いわば教員のしりをたたいてシステムを活性化させよう、それから子供たちや学校単位でしりをたたいて競争させようという、みんな追い詰められると頑張りますから、短期的には質は少し上がるかもしれませんが、長期的には随分しんどいシステムになってしまうような気がする。そういう意味では、私は余り得策ではないと思っています。 ただ、教育基本法の改正問題と絡めて言うと、お金をかけずに教育の理念を変えて教育をよくしよう、それから、お金をかけずに競争の仕組みでよくしようというのではなくて、きちんとお金をかければ教育がよくなる可能性はあるわけですから、違う方向で、とりあえず目の前の教育をよくする方向を含めてお考えになるべきではないかというふうに私は思います。 ○穀田委員 では、もう一点だけ、広田さんにお聞きします。 東京大学が行った一万人校長アンケート調査で、子供の間の学力の格差が広がると答えているのは、中学校で八九・九%、小学校でいうと八七・三%の結果が出ています。OECDの対日経済報告書では、格差の拡大は所得の低い世帯の子供たちの教育水準低下などを招くおそれがあると懸念を表明しています。 格差社会と教育基本法の第三条が示す教育の機会均等、また今度の政府の改正案の問題について、教育機会均等の文言は同じように書いていますけれども、若干中身は違うわけですが、その点についての見解をお聞きしたいと思います。 ○広田公述人 教育の問題なのか経済システムの問題なのかというところもありまして、経済システムを変えようとして、それに合わせて教育システムを変えていくという部分がありますので、そうすると、社会そのものの組み立てにもかかわると思うんですけれども、少なくとも教育の場面で出てくるのは、学力の格差とか進学機会の格差という問題は非常に重要な点だと思います。 学力に関して言うと、一九五六年の調査と七〇年代半ばの調査とあって、戦後の間に達成したものは何かというと、学力の平均値が上がって分散が小さくなった、それが日本の教育システムのこれまで達成してきた部分ですね。 ところが、今、八〇年代ぐらいから子供たちの勉強離れが進んでいく中で、競争に乗れる子供たちと乗れない子供たちと、そういうのが出てくると、恐らく決定的に、いわば分断された状況というのが危惧されてしまう。そこはやはり、機会均等の理念はきちんと生かして、社会のいわば標準的なところで、みんなができるだけ大きなリスクを背負わないで教育経験を終えられるような、そういうふうな教育システム、社会にはなってほしいと思いますね。 そういう意味では、教育機会の均等の理念はぜひ実効性のある形で、具体的な方向でやっていただければと思います。 ○穀田委員 では、松下公述人と鹿野公述人にお聞きします。 国民の声を聞くという点では、先ほどタウンミーティングのお話がありました。国会では、このタウンミーティングでのやらせの問題が非常に大きな問題になっています。八回以上のうち五つまでが明らかになっている。残りはわからないだけでそういうこともやっているだろうという話もあり、教育委員会の方々が意見も言う、席まで指定している、こういうことが明らかになっています。 いじめの問題や自殺の問題の議論をするたびに、政府は規範意識を説きます。こんなことをやっていて、政府に規範意識を説く資格があるのか、法案提出の資格があるのかと私は問われていると考えます。この点でのお考えを聞きたいと思います。 ○松下公述人 先ほど私は、タウンミーティングという方法を取り入れていただいたのはよい取り組みであるというようなことを申しましたけれども、そのタウンミーティングというのが大きな規模で行われているというふうに思うんですね。 私どもが、先ほど鹿野公述人がおっしゃいましたように、現場で子供たちを相手に、青少年を相手に活動しているときに、常に教育基本法のニュースを聞いてそれについて語り合っているかというと、決してそういうことはないんです。現実の問題に取り組むのにもう精いっぱいという感じがあります。 そして、タウンミーティングという大きな公会堂とか何かで行われるところに出ていくには勇気が要りますし、また非常に勉強して考え方を取りまとめて行かなければならない。もう少し、こういったような論議が小さいレベル、職場とか学校とか小さなコミュニティーでたくさん行われて、そこからの吸い上げが集まっていくというふうにしないと、今のようなタウンミーティングの形では、なかなか国民の意見を吸い上げたというふうにはならないのではないかという、大変個人的な印象を持っております。 以上です。 ○鹿野公述人 国民の意見をということであれば、何らかの方法は必要だろうと思います。 私、きょうここに来ておりますのは、ただ一人、個人としてここにおります。それについてはいろいろ問題はあります。学校を休まなければいけない。実際問題として、タウンミーティングに高校の教師が出ていくということについて、たとえ休日であったとしても、それは部活動あるいは模擬試験などの問題があったりしますので、非常に難しい状態である。小中についてはちょっとコメントはできませんが、高校については参加がなかなか難しい状況にあるということをお伝えします。 以上です。 ○穀田委員 では、出口公述人に最後に一言。 今お話しになりました、やはり弁護士としても、また子供たちのさまざまな病理にかかわってこられた公述人として、こんなふうな形でやらせがやられているという事態に対してどうお考えかだけ、お聞きしたいと思います。 ○出口公述人 私は、法律家の観点から、やらせは許されないと思いますね。 やはり、非常にこれは、随分報道されていますけれども、これを見ている子供たちがどういう目で見ているのかということを十分考えるべきだというふうに思います。 ○穀田委員 終わります。 |
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