古堅実吉さんの回想録出版を祝う会に出席
9日、那覇市で開かれた前衆議院議員・古堅実吉さんの回想録『命かじり』の出版を祝う会にかけつけた。
祝う会は、政界関係者ら党派をこえての参加となり、郷里、恩師、同窓生など600名に及ぶ参加者で会場は一杯だった。
沖縄の戦前、戦後をたたかいぬいた古堅実吉氏への信頼の厚さと、同氏の人間的広がりと深さにあらためて頭の下がる思いであった。
芳子夫人のあいさつも堂々としたもの。教職の活動でいそがしく、今日も退職教職員のご婦人方との交流で、実吉さんと二人での旅行もできないと爆笑をさそった。
私は、赤嶺政賢議員とともに、「革新沖縄の会」の知事候補、新垣繁信さんや多くのジャーナリストと交歓でき、有意義な一夜を過ごした。
祝う会での祝辞は、次の通り。
私が初当選したとき、古堅さんは、瀬長亀次郎さんの後継ぎとして活躍しておられました。公私にわたり大変お世話になりました。この場をかりて、あらためて古堅さんへの御礼と感謝の気持ちを述べさせていただきます。
私は、古堅さんの国会における活動の一端を報告し、お祝いの言葉とします。
国会で古堅さんの代名詞のようになっていること、それは古堅さんの政治信条でもあり、原点でもあるわけですが、「命(ぬち)どぅ宝」「二度と戦よ(いくさよ)を起こさない」です。
「あなたは、あのような悲惨な状況のもとで命を落としていかれた人々の地下からの叫びが聞こえないのですか。二度と戦(いくさ)を起こしちゃいかぬ、そのために、戦争のために事をかまえちゃいかぬ。これが地下からの叫びであろう」・・・・これは古堅さんが初当選して初めて総理大臣に質問したときの言葉です。あの悲惨な沖縄戦に当時師範学校の生徒さんだった古堅さんは鉄血勤皇隊としてかりだされました。古堅さんの体験からにじみ出る言葉です。古堅さんの追及によって海部首相は、日本の首相として初めて沖縄戦の謝罪の言葉を述べたのです。
「命(ぬち)どぅ宝」に示される沖縄の平和の心、古堅さんの思いは、有事法制に反対するたたかいとなって赤嶺衆議院議員に引き継がれています。
古堅さんの国会活動の中でのもう一つの大きな特徴は、沖縄が本土に復帰して以来の県民の共通の願いである「基地のない平和で豊かな沖縄の建設」に全力をそそいだということです。その特筆すべき活動として、1995年9月の少女暴行事件にたいするたたかいがあります。みなさんがご承知のように、沖縄では10万人の県民が抗議集会に結集したわけですが、この闘争でも古堅さんは国政の場で県民の怒りを背負って先頭にたって奮闘しました。日本共産党国会議員団は、1995年12月に総勢20人におよぶ基地被害調査団を派遣、「調査報告=沖縄の米軍基地被害」という報告書を議員団の編集で発表しました。この調査団の事務局長として活躍されたのが古堅さんでした。
このたたかいは、今日、名護における海上基地建設などSACO報告にもとづく米軍基地の再編強化に反対するたたかいとなって発展してきていますし、民主勢力の財産となっています。
第3の特徴は、革新の大義と伝統を体現してきたことです。基地の根源となっている「日米安保をなくせ」を一貫して訴えてきました。今では、ただ一つの政党です。21世紀に外国の基地の存続はやめよう。軍事同盟はやめようという革新の大義を掲げて私ども、その精神を受け継ぎがんばります。
最後に芳子夫人からごあいさつがありましたように、お二人で第2の人生を楽しんでください。お二人のこれからに幸あれ。
[2002年10月9日(水)]
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